“自分”って?

こんにちは!石川佳奈です。

 

先週の中頃、夫・まーちゃんの叔母の

葬儀に参列してきたのですが、

葬儀が教会だったこともあり、

色々と考える時間となりました。

 

私もまーちゃんも特定の宗教には属していないので、

もし亡くなったら、

家のお墓のある宗派の形式でやるのか、

それとも自由葬か?なんて思ったり。

 

日常の中で生きているのが当たり前で、

自分が亡くなった時の具体的事柄について

考えた事がなかった。

 

人は必ず死ぬのに不思議ですね。

 

私は肉体は三次元を体験する為の器であって、

自分の一側面ではあるけれども、

わたしそのものではないと思っているので、

亡くなった後の体はどうでもよく、

残った人達のよきようにしてもらえればと考えています。

 

自分が肉体そのものではないというのは、

今回の葬儀の中でも感じることがありました。

 

棺の中にお花を入れた時、

眠っているような安らかな顔に手が触れたのですが、

「これは義叔母の体だけど、もう義叔母ではないんだな」と。

 

 

この体を持った三次元に生まれてきたということは、

体があってこその体験をするためだと思います。

 

体がなくていいのであれば、

体のない次元に生まれればいいのですから。

 

だから生きている以上、

体を扱うことは大事なことです。

 

でも、この三次元の物質意識に埋もれすぎて、

体=自分そのものだと思うのも、また危うい。

 

そもそも、自分というのは、

どこまでが自分なのでしょうか?

 

肉体を自分だと思っているのであれば、

胃や腸の中にいる菌や酵素は自分ですか?

細胞の中にいるミトコンドリアは自分ですか?

(因みにミトコンドリアは細胞核にあるDNAとは違う独自のDNAを持っています)

心臓を動かしているのは自分ですか?

 

どれが正解というのはありませんが、

ぜひ考えてみてください。

 

細菌や酵素などがいないと

この体は維持できません。

 

日常生活の中で考えている自分というものが、

目に見えないものも含め、

様々なものに支えられ営まれていると感じるはず。

 

そこに気づいていくと、

世界の観方も変わってくるかもしれません。

 

また、今回の葬儀で興味深かったのは、

教会での葬儀はお悔みの言葉がありませんでした。

 

キリスト教では、人の死を「終焉」ではなく、

地上での罪を許され、

神様によって天に召されることを意味しており、

祝福されるべきことと考られているようです。

 

葬儀の中でも、

賛美歌や祝福、祈りなどが行われます。

 

前提によって捉え方が全然違うのですね。

 

地上での罪を許されるかどうかは分かりませんが、

肉体=自分そのものではないのであれば、

死=終焉というのも三次元的体に囚われ過ぎな感覚なのかもしれません。

 

死とは誰もが必ず経験するもの。

 

そのことも踏まえて

日常の中で過ごしていこうと思う体験でした。